『ダム感について』 U・ヲキナ

 

 

自分の興味対象の一つに「ダム感」というものがある。

 

 

言葉のとおりダムのような雰囲気やさまを指す。

ダムのようといっても所謂ダムブームに代表される「アトラクション的ダム」ではなく「何も無いダム」というのが近い。

ただ、廃墟や停止したペッパー君群のようなLiminalSpace的ネットミーム上でのアイコニックな「何も無さ」では無く、ダムの「結果として何も無くなっている様」が重要な気がしている。

 

ダムに行くと凶暴な自然を登山の時よりもダイレクトに感じる。

それは明確な自然破壊であったダムが年月の経過により自然側に侵されつつあるという倒錯によるものではないかと思う。

自然破壊が自然に破壊されつつある様。

そのような無作為な倒錯は確かな「何も無さ」だと思う。

 

ダムには本当に人がいない。

そういうスリリングな空間っていうのは観光や肝試しなんかで面白がられがちだけど、ダムにはせいぜい釣り人か不登校のような孫と爺か自転車乗りしかいない(自転車乗りはホントどこにでも出現するから狂ってると思う)

結局「何も無い空間」っていうのはあざとくて、それを観測する側が見え透いているんだけどダムは本当にその辺さびしくて良い。

 

ダム感は社会的条件からの逸脱に近いとも思う。

「何も無い空間」は往々にして上述のように「鑑賞者」「らしさ」「批評的文脈」にいやらしく絡められて社会的な範囲内で消費されてしまう。廃墟は心霊スポットだし、LiminalSpaceはホラーゲームになった訳なのだから。それはそれで面白いけれど「ダム感」とは違うと自分は思う。

ダムはそこから逸脱している。

 

ただ難しい所は、自分が「ダム感」に対して鑑賞者に回った時点でそのものの「ダム感」が消滅してしまうのではないかという事。

なので自分が「ダム感」があると形容する際に大体は「ダム感の周縁にあるもの」の場合が多いと思う。「ダム感」にあまりに近づきすぎるとぼんやりしてよくわからなくなってしまう。

 

ダムには大体そこに沈んでいる村についての案内書があって、訊いてもいないダムのしくみとかも馬鹿に丁寧に書かれている。

それをぼんやりと眺める。

そのときに自分はダムを強く感じる。

仮に目の前にダムが無かったとしても。

 

 

 

U・ヲキナ