はてなブログにログインできなくなっていて、色々な事にうんざりして全部どうでもよくなっていたので、Twitterとかも含めて辞めるつもりでいたけれど何故かブログにまたログインできたので続ける。発狂とは何か考えていた、躁的な自失?私たちは少なからず発狂への憧れを隠し持って(隠さずとも)生きている部分があると思う。特にTwitterをはじめとしたインターネット上の共同体ではそのような意識が嫌になるぐらい感じ取れる。そしてそのインターネットの共同体の意識の延長上にあるチェンソーマンという漫画はまさに今をあらわした発狂の漫画だと思う(まったくちゃんと全て読んではいないが、ファンの言動で全てわかる)。思えば発狂というのはやたらと持て囃されてきた。清姫伝説だとか発狂がキーとなった話は沢山あるし、シドバレットやゴッホのような(場合によっては事実を脚色、婉曲されて)発狂のアイコンのようになった文化人は嫌というほどいる。ただ、これ程までに大勢が発狂への憧れを抱きながら 実際に発狂にする という事は極めて稀な出来事だと思う。発狂したいと思うことは発狂から1番遠いことなのではないでしょうか。発狂のポーズは沢山に存在すると思う、多くは自傷の形で。だとすると、思うに全てが己で完結する社会条件からの逸脱というのが発狂なのではないでしょうか。他者を傷つけたくない、でも逸脱したい。ならば発狂して自失して発狂した存在になってしまいたい、という魂胆ではないでしょうか。発狂した存在、清姫でいうところの火を吹く蛇になってしまえばそれは己ではないのでいくらでも他者を焼き殺せる訳です。火を吹く蛇になりたいですか?私は少し、なりたいです。

 

 

ところで文化人と言う言葉が嫌いなのだけれども、ああいう人たちを言い表す言葉が他にないのが癪ですよね。言い表せない存在だから文化人と呼ばれる人達はあんなにも傍若無人なのでしょうか。違う話かもしれないけれど、perfect young ladyさんがそういった文化人を 詩人 と表現していてとてもおしゃれで痛快でした。ちなみに私はその人たちを 東京のガキ と呼んでいます。どう思います?