5月10日

流行りの物とか一応全部みちゃうし、テレビとか最悪だと思いつつめちゃくちゃ観ちゃうし、5chとかも今でもたまに書き込んじゃうし、ニコ生とかも観てたから横山緑が後ろ歩きしてる人に追いつけないで巻かれる動画みて笑ってしまう、という自分の側面と、ハラスメントだったりミソジニスト、レイシスト、虐殺に憤るという側面が私の中で相反しつつも存在していて、ただ、その両方をオープンにした振る舞いでいるのは限界があるなと改めて思った。このように自己開示する必要もない事もわかるんですが。

吉本が大嫌いでもダイアンで笑ってしまうみたいな事は誰にでもあるとは思うのだけど、なんというかそういう個人の矛盾を受け入れてくれる程のキャパシティが今の世の中にはない気がする。

2014年ぐらいまでは変な出来事があったとして、その出来事の話をしてから、それが嘘か本当か話したような気がするけど、今はいきなりその出来事が嘘か本当か暴こうとするという、流れの逆転を感じる。いきなり嘘松認定されちゃうあの感じ。

あの頃が良かったとかは1ミリも思いませんが、少なくとも曖昧な振る舞いは難しくなったと感じる。

 

じゃあ実際どうすればいいのかって考えると、自身の有り無しの判断をいちいち表明して社会的にバランスをとる感じになっていくのが良いとされているんだろうけど、いま世の中的に先制謝罪というか、加害者に回らない為の処世術としての懺悔みたいなしぐさが大資本を中心に流行しているように感じていて、例えば、大資本が運営する美術館で実際の惨事をそのまま垂れ流すスタイルの展示が行われていると、それ自体よりもその後ろの、突き上げてくるカウンターを受け流そうとする大資本の魂胆がやけに臭ってしょうがなく感じる(そのままを垂れ流すという鑑賞者がすぐそれだと理解できる手段を選んでいるのが尚更に)

そう思う自分自身が嘘か本当かすぐ暴こうとする2024年的な態度を体現していると言われたらその通りかも知れないんだけど。

私は連帯という言葉が本当に嫌で気持ち悪いと思うのですが、そういう言葉を使わないといけないぐらい巧妙な巨大権力による虐殺が起こっていて本当に最悪だと思う。

 

いわゆる倫理やルールを守り続ける事にエクスタシーを感じている層が日本には沢山いて、そういうのは気持ちが悪いと思うけど、じゃあ契ってヤクザ言葉使って悪い事出来るの?って言われたらそれも出来ない。

ただその上述の話に一貫している私の何らかにおいての矛盾について、それを皆んなに受け入れて欲しいって態度はもう限界があるなと思った。まあそう思ったから具体的に行動に何か変化が出る訳でもないけど。

 

でもミーム的な物事には慎重になるべきだと思った。

例えば頂き女子りりちゃんに関して、もっと巨額の金を誤魔化してる政治家ジジイ共が捕まらない事とか、本人の文章の強さ、主張の一貫性が相まって、自分の中で少し持ち上げてしまっていた部分あったんだけど、刑期が決まってからミソジニストのオタク達がミーム的に面白がって持ち上げている様子をみて、これは良くなかったかもなと反省した(この反省は國母和宏みたいなやつじゃないです)

 

最近裏山からウルトラマンのカラータイマーみたいな音がして怖い。何度録音しても上手く録れず、あれは一体何なんでしょうか。

おそらく5月もあっという間に終わる事でしょう。

残りの貯金もあっという間に無くなるのでしょう。

私は一体どうなるのでしょうか。

梅雨に入り、太陽が隠れる日が増える時、私は一体どんな顔をしているんでしょうか。

五月雨、卯の花腐し。

Rainy season in my heart.

 

先生助けて下さいよ。