狩野英孝的な評価のされ方をしている、音楽や絵や漫画が沢山あると思うんけど、そういったものへの向き合い方が良くわからない。
笑わせているのではなく笑われている状況が評価されている狩野英孝のような作品。
というのも昔からサブカルの人達がよくやる「面白くないものをあえて面白いと持ち上げる」しぐさみたいなものが苦手で(いじめみたいじゃんって思う)、いわゆる鬼畜系の類いの露悪趣味が終わった今でもそういった“あえて”みたいなノリがサブカルの人達に残っている気がして苦手に思う。
誰でも簡単にある程度の強度の創作活動が出来るようになった今はびっくりするようなお粗末な内容の作品が数多に発表されていて、それを本当に良いと思ったならばまだしも、半笑いで茶化すように持ち上げている人達がSNSには沢山いて最悪だなと思う。ただ、ここで難しいのがいわゆるスカム的なものであったり、作りが荒い作品にこそ魅力を感じる事は私にもよくあり、その“良さ”の境界線が自分自身で説明がつかない部分がある。私自身の 面白いと思った/面白くないと思った の境界線はそんなに強固なものなのかなとかも思う。何がスカムかみたいな話はもう疲れたので興味ないけど…。
あと、テクい事は確かにダサくなりがちでテクへのカウンター意識としてサブカルの人達がそういった荒い作品(ラフな作品という言い回しをよく見る気もする)を持ち上げる心象は理解できる。テクさ=資本主義的というふわっとした共通認識があるんだろうと思う。まあプログレはテクいのに意味ないから資本主義的じゃないと思うし、そんな簡単な話じゃないだろうって思うけど(そもそも資本主義的っていう言い回しは何だ?)。
今ってローテク、素人、ファストの時代なんだと思うし、多分私が作る物もその中に入れられてしまうんだろうなと思う。実際どう思われるかみたいな事はかなりどうでも良いけど、自分が人が作ったものに触れる時は“あえて”みたいな事は絶対したくないし、作る時も“あえて”みたいな意識は出来るだけ捨てたい。
ここまで長々と書いたけど私が汲み取れていないだけでもしかして狩野英孝って“テクい”のか?狩野英孝がテクいと思う方は連絡下さい。確かに笑わせている状況と笑われている状況って渾然一体としているというかそう簡単に切り離せるものでは無い気もする。ぐんぴぃがミームなのかミームじゃないのかみたいな話と同じか。いや違うか?
ラーメンつけ麺ときて僕イケメンで締めるのと同じ話か。いや違うか。
サブカルの人達という嫌な表現をしてしまって、自分でも嫌だなと思うけど他の言い回しが見つからなかった。やっぱり“東京のガキ”?
この時期に夜の森を歩くと、冬の間に蓄えられた冷たい空気が春めいた匂いと共に吹き出してくるのが感じられて「腐葉土っていいよなあ」って思う。2024、春。Spring。
先生、今年の春はたくさん山菜を食べたいです。
海