東京って嫌ですよね。
何となく面白そうと思っていた事も、
東京の中枢の大学の人とか美術方面の大学の人達だけで回されてる気配がすると、急に冷めてしまう。
なんで嫌なのか考えてみたけど、
要するに全てを己のメトロポリタンさのためにとりいれてる感じが嫌なのかも。
メトロポリタンさのための民俗学、メトロポリタンさのためのルーツミュージック、メトロポリタンのためのエクスペリメンタル。
お互いに試験問題みたいに固有名詞を出し合って己を権威づけようとする会話。
そんなに都会的でカッコよくありたいのかなって思ってしまいます。
そいつらが世俗的なものを“逆にね笑”って目配せしてきて擦る感じもウザい。
同じような理由で“東京臭”がしてしまうとどんなカッコいいものでも嫌だなって思ってしまいます。
でも、はじめに書いた人達の属性をラベリングしてあーだこーだ言うのも嫌ですね。
そういうのし始めたらひろゆきとかと同じですよね。カスだと思います!!
そもそも自分が東京出身でそういう大学を出ているのでかなり、自己批判的な感覚というか、ややこしい感情です。
こうやって書き記す事で自分は他の東京人と違うぞ!っていう誇示をしたいだけの文章になってしまう恐れがあります!!ガッ゛!
上手い事まとまらないかなと思って書き始めたんですが全然まとまらなかったです。
でも、なんとなく少し前に急にゴーギャンが好きになった理由が何か鍵になっている気がしていて。
メトロポリタンさのための南国と民族みたいのがずっと嫌だったけど、ゴーギャンは割と切実な気がして好きになってきた
— 海ヲキナ (@umiokina) 2022年10月6日
この機能はじめて使ってみました。なんか嫌かも笑
これまでゴーギャンはタヒチの原住民全員に嫌われていたっていう眉唾カスエピソードを結構信じててあんまり好きじゃなかったんですが、ゴーギャンの絵や当時の話をみていると本当にタヒチの時間や空気が流れている感じがしたんですよね。
前述の東京人のようなメトロポリタンさのための南国だろ?って思ってたんですがゴーギャンの絵にはディテールの切実さがある気がしたんです。そんなもの描く?ってものが描かれてたり、タイトルとかも変だけどあたたかったり(現地の言葉を仏訳されたものを和訳してるから?)。
まあとにかく切実なんですよね。
やっぱ「切実さ」ですかね、何事も。
例えどんな人であろうと切実な作品って素晴らしいですから。
真面目不真面目の話ではなくて。
ロバート秋山さんとか切実だなあって紅白で思ったし。
自分が最近すごく良いなあって思いSNSチェックしてる人も思えば皆んな切実ですわね。
あとやっぱり「ダム感」って東京に抗えうる感覚なのではと思っています。
切実に、をモットーに2023を駆け抜ける所存です。
『心のアーカイブ』。
皆さんまた、笑顔で……。
海