1月4日(ダム)

初ダムは小河内ダムへ。

 

三が日も過ぎたと言うのに奥多摩駅周辺は閑散としていて、いや普段から閑散としている場所なのか、それはわからないにしろ先ず飲食店が一つもやっていなくて困った。

散策しながら探した結果、2畳ぐらいの狭さの居酒屋だけ何故かやっていてそこで焼きそばを食べた。友達の実家の焼きそばの味がした。

奥多摩駅から奥多摩湖(小河内ダム)までは大体7kmあって、それぐらいなら散歩で歩く距離ではあるので歩いて向かう事した。

奥多摩湖の底には小河内村というかつてあった小さな村が沈んでいる。そして奥多摩駅から湖に向かうには、その小河内村から伸びていた旧青梅街道を通る事になる(今は奥多摩むかしみちと呼ばれている道)

 

歩き始めてしばらくは車道沿いを歩くような感じで、歩道が狭いのでまばらに通る車が怖いなと思いつつ、普通にハイキングのような気分だったけれど、車道と分かれるとだんだんと本当にタイムスリップしたかのような山道になってきて、点々と半分崩れているような家が現れては消えてを繰り返して、より深い所に向かっているという感じがしてきた。それでも明かりがついている家があったりもしてそれがまた逆に独特のスリルがあった。

ただ、奥多摩むかしみちなどといって、保全しているだけあって道自体は整備されていてそれはありがたいなと思いながら歩いていたら、途中から全然そんな事がなくなって、本当に激しい山道を登らないといけなくなりたまげた。道中に観光地のつもりか最もらしく「弁慶の〇〇」という立て看板とスポットがいくつかあって、弁慶の〇〇って山岳あるあるすぎて、この世に2000以上はある気がすると思った。

あと、「ここで死亡滑落事故発生!」というピンポイントな看板があって怖かった。そりゃ山道なんで基本的に23人は死んでいるだろうと思いつつも、目の前の場所で人が死にましたと言われるとかなり気圧されるものがあった。

あと、道沿いの標識の裏にこのような落書きが点在していて不気味だった。

なんですかこれ。「コレコレ」?

かなりの間隔をあけて様々な場所に書かれていて、おそらくちょっとしたいたずら心ではできないような事だと思う。「コレコレ」という言葉だけを覚えた山の邪神にいざなわれてる可能性もあるなと思った。

そんなものに気を取られていたら、いつのまにかだんだんと暗くなってきた。

足元がギリギリみえるような薄暗さの山道を登っている時、私は新年早々本当に馬鹿なことをしているなと思ったし、こういう時の高揚のために生きているのかもとも思った。薄暗い山道を歩いていると五感が冴えてきて、匂いや音や僅かな光が本当に美しく感じる。

 

結局山道では誰1人ともすれ違わなかったけれど、小猿が沢山いた。山の中で猿の鳴き声を聴いたことがある人にはわかると思うんですが、猿の鳴き声って鳥とも他の獣とも全く違くて、我々人間とDNAが近い生き物の声という感じが本当にする。崖の下の木々を優雅に渡る子猿たちはキィキィとよく鳴いて私に警戒しているように感じた。こんな正月の夕方に山を登る人なんていないからたぶん猿側もびっくりしたのだと思う。奥多摩に猿が増えているという話は噂にはきいていたけどまさか会うとは思わなかった。私はチンパンジーという動物が本当に怖くて苦手なんですが、日本猿は独特の神々しさがあって怖さがありながらも惹かれる部分もあるなと感じた。でも、それにしても薄暗い山道で子猿の集団と会うのは怖かった。

ダムに着いた。あたりは完全に夜になっていて、真っ暗だった。ダムの管理施設の明かりとほんの少しの街灯がぽつぽつと光るのみで本当に真っ暗でダムと星空に吸い込まれそうになった。特に何かすることもなくぼーっとダムを眺めた。ダム湖を囲むように山があって、その麓を車道が縁取っていて、そこをたまに通る車でダム湖の対岸が光るのを静かに眺めていた。湖畔は本当に静かで私自身の息遣いや心臓の音がよくわかった。

その時、対岸にけたたましくサイレンを鳴らす救急車が通った。サイレンの音は鳴るたびにとてもよく響いて、ダム湖全体を震動させて、そしてダムの静寂の中に飲み込まれてゆっくりゆっくり消えていく。そのサイレンの音の少し後にダム湖を囲む山から何かの獣の遠吠えがたくさん聴こえた。狐だろうか。サイレンの音を仲間だと思ったのだろうか。遠吠えはこだまするように響いて、サイレンと同じ場所に吸い込まれて消えていった。

皆んなそれぞれに生きているんだなと何となく思った。

 

初めから帰りの当てはあった。

ダムから奥多摩駅まではバスが出ている事を知っていたから。といっても打ち捨てられたようなバス停で、こんな夜遅くに、こんな暗い場所にバスが来るのかと思ったけれど、湖の対岸に一際大きな光が現れた時、そんな心配は杞憂に終わった。

そして、バスに私以外誰1人乗ってこないまま、いくつかのトンネルを潜り、暗い山道を進み、奥多摩駅に着いた。

 

人の力によって、巨大な湖(ダム)が作られて、その底にはかつて村があって、そして、それを囲む山々には沢山の狐や猿がいま暮らしている。そんな場所にもどんなに遅い時間でもバスで行ったり来たりする事ができる。

底の村に暮らしていた人達も狐と猿もバス運転手もそれぞれ生きていたし生きている。過去といまと未来があってそれを土地が繋ぎ続けている。真っ暗なダム湖の静寂の中、これまでの事を考えたのちに、これからどんな事が起こってこれから私はどうなるのだろうかとぼんやり思った。

 

 

 

12月15日

【衝撃】ソムリエ歴38年のマスターソムリエがサイゼリヤのワインの飲んだ結果...【ワイン紹介】https://youtu.be/MysL7YF4LnA?si=CobPovcAsOWXgOfS   

この動画みてワインソムリエってすごすぎると思った。左回しと右回しで匂い変わるの激アツすぎる。私も何か食べてる時、真似して 1人で「うーん、ちょっとストッキーかな」とか言ってる。ストッキーって何ですか??「サイゼリヤのハンバーグステーキには赤ワインの右回しの方が合う」らしい。ワインソムリエになりたい。

全然関係ないけど、全部の犯罪の中で1番共感できないのって飲酒運転だと思った。堤下とかのやつもそうだけどさ。まあ私は飲酒も運転もそんなする方じゃないっていうのもあるけどさ。私だったら怖くてそんな事出来ないし、そもそも、そこでいけるって思う感覚がかなりわからない。っていうかその人のいけるってなるラインがよく理解できなくて苦手な人が多い気がするわね。そういう意味では本当に嫌いな人っていないのかも、そんなに興味ないし。物の味とか匂いとか温度とか右回し左回しとかの方が興味ある。孤高のワインソムリエとして生きていきたいわ。

 

最近、仕事のメールで相手方が添付すべきファイルを添付し忘れている事がめちゃくちゃ多くて、それを指摘する返信を作文するのが結構なストレスになってる。重役あるある言いたい言います、添付ファイル添付されてないがち!!

しかもMacWindowsのアレがアレになって添付ファイルがあるんだけど変な場所に表示されてるパターンとかもあって勘弁して欲しい。

メールって仕事でも友達とでも何でも何だかんだ1番触れてるコミュニケーションツールだけど、1ブラックボックス感があって使ってて不思議な気持ちになる時がある。

全部ファックスで押し通そうとするジジイの気持ちもわからなくはないよ、こうなってくると。印刷会社とかだと受注の指示書をファックスで送れとか言ってくる所全然あるしね。まあファックスもファックスで不安だけどな。あれ、ちゃんと任意の面を任意の縦横で送れてるのかわからないし。

ブログはいいよなあ。

このように文章を書き上げて、投稿ボタンを押せば確実に皆さんに届いたという事がわかるから。あんさ、いつも皆さん皆さん言ってるけど皆さんって誰なんだろうね。最初は誰も読んでない前提で皆さんとか皆んなとか言ってたんだけどさ、少し前に知らない方からブログを楽しみにしてるって旨のDMをいただいたんだよね。ありがたい話なんだけどさ、ほんとうに。それから「意外と見られてはいるが誰もみてないだろう」って気分で書くようになったんだけど、結局どうなんだろうね。どう思う?ブログってなんなんだ。

私には人に見せるまでもないライフワークみたいなのがいくつかあってブログもその一つな気がする。

来年は皆さんと大江戸温泉物語とかに行きたいな。いまカニ食べ放題やってるらしいよ。皆んなカニどう?私は意外とそうでもないんだよな。カニでテンション上がった事ないかも。好きでも嫌いでもないかな。すみません。

大江戸温泉物語って行ったことないけど、店内でお正月みたいなBGM流れてて、店員があいよ!とか言う感じだったら結構嫌だな。大江戸温泉物語で働いている人がこのブログをみていたらごめんなさい。あいよ!笑

……

めんどくさくてやってなかった複雑なやり方の占いをやってみたら、私は羽生結弦と全てが一致しているとの結果が出て本当に悲しい気持ちになった。羽生結弦って私からこの世で1番遠い存在だと思うんだけど。いや意外と私がもしフィギュアスケトをやってたら憑依するタイプだったりするのか?まあ確かにブログ書いてる時は憑依してるかも。ブログで書いてる悪口とかも憑依して書いてしまったものだからな、私の中のボクが書いたんだよね。………

本当こういうのよくないよね、羽生結弦好きな人っていっぱいいるし、ユズがこのブログ読む可能性だってあるもんね。

なんかさ、いつまでこんなわけわからないブログ書いたりしていられるのかなとか年末になると考えてしまうよね、誕生日も過ぎ去った事だし(だいぶ前だけど)。まあ続けられるうちは続けるよ色んな事を。やめる時はやめるし、その時はジタバタしたくないな。

すぐに終わらせる癖がついてる ずっと ってホント思うけどね、恥ずかしいよ。後藤慎太郎さんの歌詞は本当に凄いと思う。

皆んな本当に凄いよ。皆んなが作ったもの聴いたりみたりしてると本当に涙が出てくる(感動とかじゃなくて何故か勝手に)。

 

まあその皆んなにあなたは含まれてないかも知れないんだけどさ。ごめんね。

来年もまた

 

 

 

 

12月6日

今日は久しぶりに映画の仕事(厳密にはテレビだけど)があって、やっぱりこっちの仕事の方が向いてるなとは思った。嫌だけど。

その帰り、渋谷駅の山手線乗り換えの時にマーピポとすれ違ってめちゃくちゃビックリした、噂すると見かけるもんなんだな本当松だからな?ライブとかも行った事ないから現物をみたのは初めてだったんだけど、想像以上に高圧的なオーラが一切なくて、そんなのズルいじゃんって思った(全身赤くはあった)。ブログに悪口書いてるこっちが悪いみたいじゃんって思った。まあ実際100でこっちが悪くてダサいだけなんだけどさ。

 

確かにクラスの嫌な奴とかも掃除の時間とかに数分だけ話すと案外いい奴だったりするし、そういうのって人の狡さだよなって思う。狡いっていうのは相手の中に無意識にでも善性を探してしまう自分自身と、そんな善性を無意識に備えてる全ての人がって話。

そりゃ全員いい奴だもんな。人だもの。

でも人の悪口は言いません、全員許します、みたいなスタンスでいるのって私はどうしても出来ないんだよな。

誰かの事を好きと思っている時と同じぐらい、誰かの事を嫌いと思っている時に私は生きていると感じる。精神的に磨耗している時ほど他人の中に善性を探してしまって悪い意味で物事のバランスが保たれて結局何も言えなくなってしまう。

こういった事の匙加減ってそれぞれに納得できる按配をみつけてどうにかするんだろうけど私はなんか最近そういった事が本当に壊れてしまった。でも、やっぱり嫌な人は嫌だし、私自身が間違っているとはあまり思わない。ほんとうに説教されてる小学生みたいな事を言っているな。

ハラスメント系の上司ほどお菓子とか物くれたりするのってあるあるだと思うんだけど、多分ああいうのって本人の中で善性のバランスを保とうとしてるんだろうな。それでそれをすんなり許せる人って私の思う以上に世の中に多いんだと思う。

 

さっき、おもちゃ病院に出していたおもちゃが治ったとの連絡があって少し元気になった。でもやっぱり色々悲しいや。チバも死ぬし。なんか色んな人とすれ違ってるんだろうなとは思うけど、どんどん嫌いな人が増えていく。

夜に散歩をしていたら巨石が転がるような低い音が聴こえてきて、耳を澄ませるとそれはマンホールの底から聴こえる下水道の音だった、寂しい冬の音という感じがした。

皆さんにとって2023はどんな一年でしたか?色んな事があったともいえるし、結局何もなかったような気もする。よかったら2023年の感想を私に送ってきてみてください。待ってます。

来年もまた………

 

 

 

12月4日

KPOPの細い女性が素早く動いている動画をみると体育の時間を思い出して息切れしそうになる。

昔の友達に会って一緒に絵を描いて、それがとても楽しかった。泡沫(うたかた)の楽しさじゃなくて、こういうみのある楽しい事をしたいよねと言われて確かにそうだなと思った。同時に泡沫を悪い意味で使うのが新鮮だなと思った、儚いものを有り難がりすぎる場所に身を置きすぎていたかもとも思った。

皆んなそれぞれによくやっていて、それぞれの時間の流れに沿って少しづつ歳を取っている。そしてそれぞれの苦悩があってそれをわかり合う必要はないんだと思う。

来年はもっと1人でいたい。

1人でいられる仕事をみつけて静かな時間を限られた大切な人達と過ごしたい。

でも、来年を迎えることができるのかと何度も思うし今でも思っている。

 

GEZANGEZANみたいな人が本当に無理なんです。

自分自身をどうみせるかという事が行動原理の根幹にあるようにしかみえないから。

ライブハウスによくいる嫌なパンクロック男性的な態度なまま新しい話をしているから。

どうしてもダサいって思われたくないって意思が伝わってき過ぎてダサくなってるから。

駆け引きが上手で全ての出来事を映画のようにする人のやり方をしているから。

でも、ああいう声が大きくてゲインが上がり切っている集団がいま求められているのもわかる。だからあれに熱狂している人達を腐すつもりはないかな。かつて熱狂していた人達も含めて。正しいのは向こうなんだと思う。何か大きな事を成し遂げてくれるんだと思う。

大学でも職場でもSNSでも、どこの世界にいってもGEZANのマピポみたいな人がいて、それでああ、ここに私は居ちゃいけないんだなと思って立ち去るみたいな事を何度も繰り返してきた。別にそういうものだと思うし、特に何も思わない。同時にこちらに対しても逆に無しとなった方から順番に立ち去っていただきたい。もっと透明になりたい。

 

自分の事を暗い人間だと思った事がない。

失敗してもなんだかんだ最後は出来るんじゃないかという漠然とした細い糸みたいな自信がずっとあって、相当に能天気な人間だと思う。結局上手く行った事とかもほぼないんだけど、まあそういうもんだよなとそこも漠然と軽く受け止める事が出来る。この感覚は自分でもよくわからない、逆に自信がないって事なのかな?(逆?)

モバイルバッテリーを持ち歩いた事がない、意味がないから。

ポイントアプリを入れた事がない、意味がないから。

骨折した事がない、意味がないから。

点滅してる信号を渡った事がない、意味がないから。

フリマアプリで値切りをした事がない、意味がないから。

サウナに入った事がない、意味がないから。

スマホゲームやった事ない、意味がないから。

でも、最近ミサンガに興味がある。

意味がないけど付けてみたい。

そういう事から始めてみようと思う。

 

来年もまた、笑顔で。

小さな花を育てましょう。

 

 

 

11月29日

うーん、喧嘩してぇなあ。

喧嘩してぇだけなんだけどなあ。

これからおそらく死ぬまで飲み続けないといけない薬のことを考えると少し憂鬱になる。

治すための薬じゃなくて良い状態を保つための薬って ………これ一生? って飲むたびに思って頭がくらくらする。そういう時に、いわゆるオーガニクっていうかナチュラル脱薬系にはしる人の気持ちも少しわかる気がする。

ジョブズさんがガンの放射線治療せずスピ治療を選んだのも多分 ………これ一生? って思ったからなんだろうな。iPhoneつくるぐらい聡明なお方だものね。小学生の時、ジョブズに憧れて毎日同じ服着てる子いたけどいま何してるんだろう。警官になりたいって言ってたけど(なんで警官?笑)

インテリ系の有名人ほど突然スピり出すのってなんでだろうって思ってたけどきっと皆んなどこかのタイミングで何かに対して ………これ一生? って思ってしまったからなんだろうね。 ………これ一生?の類いの絶望感を乗り越えるのに1番手っ取り早いのがスピりなんだと思う。自分の感覚を超えた何かに意思決定を委ねる事って結構楽になれるもんね。 

そういう意味では私も、サイコロの出目でやるかやらないかを決めたり、信じてもいない占いや手相をふーんと思いながらみたりしている。スピり切ったら終わりだと思いつつ、やっぱり適度にスピってないとやっていけないんじゃないかな、この国終わってるし。あと、宗教を信仰する事とスピる事って似ているけど違うものだなと思った。どっちも手っ取り早く楽になる方法ではあるんだけど、宗教は神という存在がいると確信してその主人()に意思決定を委ねるワケだけど、スピるのってもっと漠然とした見えざる何か(自然など超常的なもの)に委ねるワケで、なんというか手綱の握られ具合が違う気がする。まあこんな話できるのも自分が健康で理性的な状態だからなんだろうけど。世の中には何かに縋らざるおえない状況の人が沢山いるもんね。実際惨い戦争が現在進行形で行われているワケだし。

薬を家にある1番小さなお皿に乗せて飲むと簡単に悲しい気持ちなれる。最近は大きな悲しい気持ちに押し流されないように即席的に小さな悲しい気持ちになって紛らわす事が多くなった。仕事を中々辞めさせて貰えないし、元恋人にしつこく連絡されていて、何度か死のうかなとも思ったけど、色々なライブを観に行ったりその人達の作った音楽を聴いたりしてどうにかなった。音楽で自分を元気付けるみたいな事ってなんか音楽に対して物事を背負わせすぎていて不義理なんじゃないかなとも思うけど

どんどん理屈っぽくなっていて駄目わね。

電気ヒーターを引っ張り出してきたら、2本あるヒーター部の片方が着かなくなっていたけど充分に温かい。岡崎律子って曲はめちゃくちゃ好きだけど歌詞がダサくない?でも好きな方向のダサさだな、ずっと当たり前のこと言ってる系の。90年代後期〜00年代頭の女優とか声優とかが歌ってるポップスって大体ずっと当たり前の事言ってるだけの歌詞で結構聴いてて恥ずかしいけど好きだな。ただ大音量で聴くと恥ずかしいから小さい音で聴く。歌詞が好きな人の曲は大音量で聴ける。

でもタイガースの生きてることは素敵さって曲はずっと当たり前の事を言っているのに大音量で聴ける。聴くと毎回泣きそうになる。色々な事をたくさんに話した後の研ぎ澄まされた当たり前の言葉という感じがする。

https://youtu.be/N25uu7dpgCk?si=D60Vt3jxG-cfX2Bo

 

最近貰ったいいお酢がめちゃくちゃ美味しくて目に映るもの全てにお酢をかけてる。

本場の韓国料理ではごま油は炒める時に入れずに最後にかけるらしいですね。

皆さんにとって2023はどんな一年でしたか?

来年も……また、………笑顔で

 

 

 

 

11月28日

研究職に進んだ友達から何年かぶりにTEL

お互い人と話してなさすぎてぎこちなくて面白かった。色々辛い時期もあったのにずっと1人で上品に生きていて本当にかっこいい人だと思う。まだ絵は描いているのかと訊かれて、漫画をぼちぼちと答えたけど恥ずかしくて見せはしなかった。というかみせた時点で海ヲキナという名前がバレてしまうのでおそらく一生みせる事はないでしょう。

海ヲキナという名前で色々描いたり作ったりしはじめた事の弊害として、それを近しい知人や親族に明かせないというのがある。いや明かせるのか?いわゆる芸能人まではいかないにしてもペンネームで活動してるみたいな人がどこまで周りに明かしているのかって話が1番気になる。皆さんはどうしてるんですか?

まあ私の場合は親には言えないだろうなって思う。友達にはまあ言ったり言わなかったりですかね。実際向こうもペンネームで活動してる人には明かしちゃったりしてるし。Twitterフォローされちゃってるし。怖くて訊いたことないけど私がTwitterで癇癪おこしてるのとかどんな目でみてるんでしょうね。

あー怖。

でもまあ、今後Twitterで知り合った人とかと会ったり遊んだりしたりするようになったらそういう海ヲキナと私の境目みたいなものも無くなっていくんですかね。まあそんな事するとは思えませんが。特に話す事とか無いしなあ。感想がない。

特定の誰かを腐してる訳じゃないけど、SNSで誰か会いませんか〜って不特定多数に投げかけ続けてる人って結構わからない、よくいるけど。なんか下品だと思う。会いたい人が出来たのならばその時その人に会えばいいのではないでしょうか。まあそういうコミュニケーションの取り方の人ってだけか。それぞれ松だね。

でも、いずれは海ヲキナとして身体的に出ていかないといけない時がくるのかなとも思ったりする。一生何をしているかもわからない訳わからない存在でいたいんだけど

最近改めて思ったけど別にみられたいみたいな願望がいま私にはほぼないんだなと思った。

なんとなくその時に思い浮かべてる人がいてその人に届いてくれればいいだけで、むしろ求められすぎる(みられすぎる)としんどい時がある。だから前も書いたけど漫画が完成しても本当はTwitterに載せたくないんですよね。まあ載せますが

来年は淡々と制作しつつ、やってる感をいかに消すかみたいな事を考えたい。夕方に散歩をしていると本当にもう年末だなとしみじみ思う。野焼きの匂いが不思議と秋版から冬版に切り替わった気がする。お風呂に入っている時に窓をあけて外の空気を顔で浴びると冬の瑞々しさを感じられてとても気持ちが良い。今年もあと約1ヶ月わね。

来年もまた、笑顔で